空飛ぶ畳

日常の思ったこと、育児・子育や仕事のことなどつらつらと書いていきます。

今ある「当たり前のこと」が「当たり前でない」と気づければ悩みや苦しみよりも感謝が生まれる。


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人の悩みや欲望といったものは尽きることがありません。

よほどの聖人でない限りはまず無理なことでしょう。

そんな中でも、今の置かれた環境が「当たり前のこと」と思うか、「当たり前のことではない」と思えるかで、人の幸福度に天地ほどの差が開くことだと思います。

 

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人は今ある環境がすぐに「当たり前」になってしまう。

まぁ私のような凡人の話です。

人は今自分が置かれている環境に対して、自然とそれが「当たり前」になってきてしまい、また新たに何かを欲しがるという欲望にかられたりします。

それが常に前向きな向上心からくるものであればきっと良いことなのでしょう。

しかし、それが誰かと比較したことであったり、何かと比較したことであったり、そんな自分自身の向上心というよりは、欲望(煩悩)からくるものであればこれは際限がありません。

そしてその欲望を手に入れたとしても、すぐにそれが「当たり前」になってしまい、また新たな欲望が生まれたりします。

恋人が欲しいと悩んでいた人が、いざ恋人が出来ると今度はお互いの束縛や自由に干渉され悩み、または浮気だ別れ話だといったことで悩んだりし、新たな恋人をすぐに求めたりなんてこともあります。

好きな相手と理想の結婚を夢見た人も、いざ結婚をして同居すれば、相手の嫌な所や我慢出来ないことが目についたりして離婚を考えたりする人もいます。

子供がなかなか出来なくて苦しんでいた人でも、いざ子供が出来てみると、子供のことで夫婦喧嘩ばかりしていたり、子供のことで悩んだり、子供なんて生まなければと後悔したりする人もいます。

幸せなマイホームを購入して、理想な家庭を夢見ていたのに、いざ生活して年数が経つと、せっかく買ったマイホームが苦痛の場に変わることもあります。

小さい頃から親にアレコレと面倒を見てもらい、愛情を持って育ててもらっていても、そんなことは当たり前で、親が嫌いになったり鬱陶しく感じたりして、自分一人で生きている錯覚に陥る子供も居ます。

親があくせく一生懸命働いて子供を大学まで行かせようとしても、それは子共にとってはごく当たり前の感覚でしかなく、やれ仕送りだ浪人だ就職しないなどという子供も多いです。

仕事がなくて悩んでいた人が、何でも良いから仕事を持ちたいと願っていても、いざ仕事に就けばその会社や給料の不平不満が出てくるものです。

こういったことは当然誰にでもありますし、それが良い悪いということを言いたいわけではありません。

結局何が言いたいかというと、人は「今ある当たり前のこと」が「当たり前ではない」ということに気づけないと、簡単に現状の不平不満を募らせたり、目の前の悩みに苦しんだりするということです。

そしてさらに、周りの人への感謝であったり、思いやりであったり、陰で支えてくれている人へのありがたみなど、そんな思いすらも失くしてしまうものです。

本当に今ある環境というのは当たり前のことなのでしょうか?

たとえ自分の努力で手にしたものであっても、本当に自分だけの力だけで手に入れたものでしょうか?

ということです。

 

人は大切なことを失ってみてからそれが「当たり前ではない」ことに気づく

多くの人がきっとそうだと思いますし、少なくともこのような側面は誰もが持っているかと思います。

よく「人は失ってからその大切さに気付く」と言われますよね。

恋人同士であれば、いつも一緒にいるのが当たり前になって、ぞんざい(いい加減にしたり、丁重さがないこと)に扱ったりすれば、別れたときに、その人の存在の大切さに気づいたりします。

夫婦であっても同じですし、目先の欲望で浮気や不倫などをすれば大いに後悔することも多々あります。

子供のことで悩んだり、親の思う通りにいかなくていつも不平不満やイライラを募らせていても、もし子供の身に何かあれば、本当は元気に居てくれてさえいれば良かったことに気づきます。

仕事ばかりの夫が、いつもご飯の用意や家事全般のことや、子供の面倒に苦労している妻の存在を軽く見て、それが当たり前の環境だと思っていれば、それがぞんざいな態度に表れて、家庭を失ってから家族のありがたみに気づいたりします。 

いつも家族の生活のために仕事のストレスに耐えて頑張っている夫に対して、夫は給料を稼いでくることが当たり前と思っている妻や子供は、夫の存在のありがたみよりも不平不満しか口にしなければ、いずれその当たり前のことに気づかされることになるかもしれません。

仕事があり、お金を稼ぐことが出来ることを当たり前と感じていて、会社や上司の文句ばかり言っていれば、リストラされたり職に付けなくなったときに、働けることの大切さに気付いたりします。

今までは健康で丈夫な体であっても、その丈夫な身体が当たり前と思っていても、病気やケガで今までの当たり前のことが出来なくなれば、単純に歩ける、動ける、しゃべれるといった当たり前ことが、実は当たり前ではなく幸運であったことに気づいたりします。

更に言うと、今ある環境が当たり前と感じる人は、何かがあれば幸せになれると感じる側面もあります。

お金があれば、素敵な恋人がいれば、子供がいれば、マイホームがあれば、出世できれば、あれがあれば、これがあれば、もっと幸せになれるのに・・と。

そして仮にそれが手に入ったとしても、またすぐにそれが「当たり前」となってしまい、今ある大切なものよりも次への欲望を優先してばかりいたりします。

こういったことはある意味止むを得ないことかもしれません。

欲望なくして向上はありえないという言い方も言えなくもありません

しかし、それでもできることなら失ってから気づくのではなく、また、今ある当たり前よりも次の欲望を欲してばかりいるのではなく、失う前に今ある当たり前の大切さに気付くことが出来れば、自然と今ある環境や今ある周りの人を大切に出来ることでしょう。

 

「当たり前のこと」を「当たり前でない」と気づくと悩みや苦しみよりも感謝が生まれる

こんなことはただの理想であり、きれいごとなことかもしれません。

しかし、人の幸せはこういったことに尽きるのだと思います。

さらに理想を言えば、今ある当たり前のことに感謝しながらも、更なる向上心を持って前に進むといった心境があれば最高でしょう。

ではこの今ある「当たり前のこと」とどのように向き合えばいいのか?

私も凡人なので上手くは言い表せないかと思いますが、やはり今あるモノや環境、そして人に対して、「冷静」に「淡々」として、きっちりと向き合うことだと思います。

むやみに欲望にばかり気を向けないということです。

そして「今出来ることを大切に頑張る」といったことでしょうか。

そうすれば単純に欲望に埋もれることも少なくなってくるはずです。

欲が悪いとか、向上心が欲を生むといったことを言いたいのではなく、それに埋もれないようにするといったところです。

欲に埋もれることなく、淡々と目の前のことを大切にしていれば、今あるものは簡単に「当たり前のこと」にはなったりしないはずです。

そして「当たり前のこと」にならないようにしていれば、そこには自然とものごとや周りの人に対して「感謝」が出来ていることです。

目の前のことを大切にしていれば、目の前のことに「感謝」をしていると言えますし、目の前のことに「感謝」をしていれば、自然と目の前のことを大切にしていると言えます。

目の前のことに「感謝」なんてことは、自分で書いていても何ともこっぱずかしい感じですし、そう思いたくても簡単に目の前のことに「感謝」なんて出来ない自分が居ます。

でも、やっぱりこういったことが大切であり大事であることは理解できるかと思います。

 

最後に

いろいろと書いてきましたが、自分でもよくわからない記事になってしまったかもしれません。

しかし、たとえ感謝まではいかなくても、たまにでも良いから、今ある「当たり前のこと」を疑ってみるのも良いかもしれません。

もし、今ある当たり前の環境の一つがなくなったら自分はどう感じるか?

今ある当たり前のものが今後なくなると思ったら、今自分はどういう思いを持ったり、どういう行動を取るのか?

そういったことを想像してみるのも良いかもしれません。

そうすることで「今ある当たり前のこと」の大切さに気付くことが出来るかもしれません。