人は「誰かの役に立つ」ことにより自分の存在価値を高める。でも相手の反応は期待してはダメ。
人は自分の存在価値を「高める」「認める」には、誰かの役に立っていることを自覚したときであると思う。
それは仕事においても、日々の生活においても通じることである。
例えば、仕事において、とてもやりがいがあり仕事が楽しいと思えるとき。それは会社に貢献し、部下や上司、そして顧客など周りの人たちから認められるときである。
すなわち「誰かの役に立っている」ことを実感できているときである。
このようなときは、仕事も楽しいし、自分の存在価値を大いに認識できて、とても充実した日々であることだろう。
家庭や友人関係などでも同じである。
自分の言動により、周りの人たちが喜んでくれる。感謝される。期待もされる。
そして「誰かの役に立っている」ことを実感し、有意義に自分の価値を自分でも認められるのである。
では逆に、周りの人たちは関係ない、自分は自分の好きなことをやる。
というのはどうだろうか?
これも結局は、自分自身が「誰かの役に立っている」という認識が出来なければ、上手くいかないことではないかと思う。
よく「自分の好きなことやりたいことを仕事にしよう」というのがある。
しかし、実際にやってみると「なんか違う?」「自分のやりたいことはこれではなかった?」と思うことがあるかもしれない。
これは、本来自分の好きなことを仕事にしているのだけれど、上手く回らない、結果が出ないと、「なんか違った?」ということになる。
結局、思うような結果や評価が得られないということは、「誰かの役に立っている」と実感出来ないのである。実感出来なければ、周りから認められなければ不平不満が出てしまうのが人間である。
それでも、目に見える効果が得られなくても、自分のやっていることは「意義がある」「きっと喜んでもらえる」と思える人は幸いであるし、強い人間であると思う。
そのような人はきっといずれ結果を出すことができると思う。
結局何が言いたいのかというと
人間というのは、「誰かの役に立つ」ことにより、自分の存在意義、存在価値を高められるということである。
だから大いに「人の役に立つ」「誰かの役に立つ」ことを率先してすることが、人生を有意義に過ごすことにつながるのではないかと思う。
むしろ「誰かの役に立つ」こと以外のオナニープレイでは、物事は上手く行かないのでは?ということ。それは一時は楽しいかもしれない。しかしいずれはすぐに飽きるし、寂しさや虚しさが訪れる。きっと同じことの繰り返しとなる。
さて、ここでよくある注意点が一つ。
それは、相手のためを思ってしたことの「押し付け」である。
自分は相手のためを思って、良かれと思ってしたことであるが、それが必ずしも相手のためになるとは限らない。
相手から良い反応が得られなければとたんに不機嫌になる人がいる。
これも結局はオナニープレイである。
相手のことを思ってというよりは、相手の役に立ったことを自分が実感したいがための言動の場合である。それは相手のためではなく、自分のための行為である。
せっかく「誰かの役に立つ」ことをしておきながらも、相手の反応を期待する時点でそれは「自分のため」に瞬時に切り替わってしまうのである。
これは気持ちはよくわかる。
相手に喜んで欲しいからこそ期待してしまうことだろう。
「自分は相手のことを良かれと思ってする」
それはもしかしたら大きなお世話かもしれない。自分の勘違いかもしれない。そう思えたら次は気を付ければいいのである。
相手から良い反応が得られなくても、自信を持って「相手のため」と思えるなら、きっと相手の反応なんか気にしないはずである。
まとめ
人は「誰かの役に立つ」ことにより自分の存在価値を高められるということ。
だから大いに「誰かの役に立つ」ことをしよう。
しかし、相手の反応を期待した時点で、それは「誰かのため」でなく「自分のため」に切り替わってしまうということ。
「自分のため」だけであれば、結局は得られるものはあまりないのではと思います。