空飛ぶ畳

日常の思ったこと、育児・子育や仕事のことなどつらつらと書いていきます。

電車で席を譲るのも座らないのもその人の自由


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今さらな話なのではあるけれど、電車に乗ると大抵目につくのが「席を譲りましょう!」というのがよくあります。

席を譲る譲らない、誰かに席を譲られても座る座らない、いつの時代でもあるあるな出来事です。

 

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席を譲るという行為

うちの息子も小学生になり、やたら周りの人に良かれと思ってすることが増えてきました。

誰かが何かを欲しがれば「どうぞ!どうぞ!」と譲ってしまったり、エレベータでは降りるときに「開く」ボタンを押してあげて「どうぞ!どうぞ!」と譲ったりしています。

親からしてみたら偉いという思いもありますが、「いや、それは親が買ったものだから簡単にあげるなよ。。。」「開くボタン無理に押さんでも、かえってあなた邪魔だから。。」などと思うことも多々あります。

それでも電車で座っていて、誰かに席を譲るということはまだないんですけどね。

自分が座っていたいから。

電車内で、お年寄りや妊娠中の女性、足の不自由な方などに席を譲りましょう!というものがよくありますが、そもそもこれは「譲ってあげたい」「席に座らせてあげたい」という思いがなければなかなか出来ることではありません。

つまり誰かに言われて強制的に行う行為ではないということです。

当たり前ですよね。

もちろん強制的にだとしても、それで席を譲ってもらえて、座ることが出来て助かる人も多くいることでしょうから、それが悪いというわけではありませんが。

ただ、強制的に善を押し付けるのは違います。

このような少しズレた風潮により、

「座っている目の前にお年寄りや妊婦の方が立っていると落ち着かない」

「座っている目の前にお年寄りや妊婦の方が立っていて、譲らないと自分が酷い人間だと思われるかも」

「優先席が空いているけど座りづらい」

「席を譲ってあげたのに座ってもらえなかった」

などといった、たかだか電車内での空間が妙に息苦しくなってしまうものです。

 

席を譲られたら座ってあげて!

電車に乗っていると、たまに駅構内などの壁に、小学生などが書いた「絵」などが展示してあることがあります。

その絵のテーマは大抵が電車に関する「マナー」や「注意」などのキャッチフレーズが書かれているものです。

「ホームでの歩きスマホは止めましょう!」

「足を出したり荷物で席の幅をとったりマナーに注意しましょう!」

「お年寄りや妊娠中の人に席を譲ってね!」

「駆け込み乗車は止めましょう!」

「電車の中で音楽や電話は迷惑です!」

だいたいこんな内容のものがたくさん張っています。

その中で一つ気になったのが、

「席を譲ったら座ってあげてね!」

というものです。

これすごいよくわかりますよね。

特に子供たちが勇気を振り絞ってお年寄りに「どうぞ!」と言って席を譲ってあげても、

「ううん、大丈夫だから座ってていいよ」

「ありがとう。でもすぐ降りるから大丈夫」

「わしゃまだ年寄りではない!」

「。。。(無視)」

このように断られると、譲ってあげた子供はどうしたらいいものやらで、またそのまま席に座るのも居心地が悪いし、喜んでもらえると思って勇気を出しても、席に座ってくれなければ喜びも薄いものです。

これは当然子供だけの話ではなく、大人でも一緒ですけどね。

だから先ほどのキャッチフレーズにあった「席を譲ったら座ってあげてね!」なんですよね。

思いやりをもって席を譲る、譲られた方も思いやりをもって座ってあげる。

うんうん。良いですね。

思いやりの投げ掛け合いです。

でもですね。。。

あれ?

やっぱりこれも善意を強制的に押し付けていますよね?

「席を譲ってあげて!」「譲ってもらったら座ってあげて!」

って。

良い事や人への思いやりを、半ば強制的だとしてもそれを教えていくことは大切なことだとは思います。

最初は強制的だとしても、それを続けていくことで思いやりややさしさが芽生えることもよくあることです。

半強制的なボランティア活動的なものに参加させるのもそういう意図があったりもしますよね。

やらない善よりもやる偽善の方が100万倍も良い行いです。

でもそれらを他人から強制的に押し付けられたり、その正しいと思われる行為を「ほぼ絶対的なもの」として広める風潮というのは、あくまで理想であって現実的ではありません。

なぜなら、何がその人にとって「正しい」のか「正しくない」のか、何がその人にとって「嬉しい」のか「嬉しくない」のかは千差万別だからです。

子供が「座ってあげて」と思う心も清く正しいものです。

しかし、電車で席を譲りたい人も居れば席を譲りたくない人も居ます。

電車で席を譲られて、席に座れて嬉しい人も居れば席に座りたくない人も居ます。

席を譲られることすらも嫌な人も居ます。

世の中には、社会には、そのように色々な人が居るということが現実であり、色々な人が生きやすい世の中が本来はあるべき姿なことでしょう。

 

多種多様な人が存在するのが世の中

まぁたかだか電車での席を譲るとか座るとかの話なんで、それ自体は大したことではないんですけどね。

席を譲りたくなければ平然と座っていればいいし、

席を譲りたくないけど居心地が悪いのであれば違う場所に移動すればいいし、

席を譲って喜んでくれればまた譲ってあげればいいし、

席を譲って断られて怒るぐらいならもう譲らなければいいし、

席を譲られても座りたくなかったら座らなければいいし、

席に座って足を前に突き出している人が居れば、その足を思いっきり踏んだり蹴とばしてやればいいし、

平気で人を突き飛ばすような人は後ろから飛び蹴りをくらわしてやればいいし、

酔っ払いや痴漢(冤罪除く)などバカは首根っこひねり上げて駅員や警察に突き出せばいいし、

そういう多様性のある生き方が本当は望ましいと私は思います。

上で書いた「座ってあげてね」的なポスター自体は子供が書いたものであり、とても素晴らしいことではあります。

ですが、このようなことは何も子供の世界だけでなく、世の中の社会の風潮にも理想を押し付けて都合の良い「善」をあたかも絶対的なものとして振舞う風潮が多々見受けられます。

この記事のテーマにした、電車内での席を譲る譲らないとか、譲られたら座るとか座らないとかという話であれば、子供に教えるべきことは、「席を譲ってあげる」「譲られたら座ってあげる」という「思いやり」の部分も大切ですが(何も上で書いたポスターから学校や家庭での教育を指しているわけではありませんが)、世の中には社会には色々な人が居るんだというかとや色々な考え方があって良いんだということも教えていく必要があります。

こうしなければいけない。

こうあるべきだ。

こういったこともそろそろウンザリしてきました。

もちろん良い事、悪い事、といった善悪はあります。

この国が法治国家である以上、法も守らなければいけません。

ただそういったもの以外であれば、この国はもっと多種多様性を寛容できるような世の中になるべきですよね。

よくネットとかでも、海外での日本人の振る舞いが称賛されたりしますよね。

「日本人は礼儀正しい」

「日本人は人を騙さない」

「日本人はゴミをきちんと拾う」

「日本人は規則正しい」

たしかにこれらは日本人としての美徳であり、日本人として誇れるものですが、でも、なんか、ちょっと違いますよね?

私たちは寛容を目指していながら、その寛容を失っているのかもしれません。