空飛ぶ畳

日常の思ったこと、育児・子育や仕事のことなどつらつらと書いていきます。

「清濁併せ呑む」の心は自分の度量を大きくし、理想のリーダー像につながる。


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社会には、世の中には、理屈の多い人や、自分の考えや価値観に固執する人が多くいます。

私もその一人かもしれません。

 

自分の考えや価値観をしっかり持って、周りに振り回されない人であれば、それはそれで立派なことだと思います。

自分は自分、他人は他人という考えはとても大切ですが、自分と異なる価値観を一切受け入れられず、無視または排除するような考えとなると、それは「独りよがり」となってしまうかもしれません。

「清濁併せ呑む」とは、そんな自分の価値観とは異なることも受け入れてみる。
ということわざの意味を持ちます。

 

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「清濁併せ呑む」の意味

清濁併せ呑む:せいだくあわせのむ

良いことも悪いことも、善人も悪人も、綺麗なものも汚いものも、隔てなく受け入れることが出来る。その度量の大きさ、器の大きさなどを表す例えで使われることわざです。

ネットでの引用も載せておきます。

清濁併せ呑むとは、善人でも悪人でも、来る者はすべて受け入れる度量の大きさを表すたとえ。

大海が清流も濁流も隔てなく受け入れることから、心の広い人のこと。
「清濁」とは、善と悪・善人と悪人・賢者と愚者などのたとえとしていう。
「併せ」は「合わせ」とも、「呑む」は「飲む」とも書くが、「併せ呑む」の表記が一般的である。

善も悪も併せ持つ人物という意味で使うのは誤り。
誤用例 「彼は清濁併せ呑む人で、そういうところが逆に人間らしい」
「清濁」を清酒と濁酒の意味で使うのは誤り。

 

引用 - 故事ことわざ辞典「清濁併せ呑む」

 

この言葉はとても奥が深く、かつ、意味の受け取り方や使い方は多岐にわたる言葉でもあります。

清と濁、善と悪、このようなことを併せ呑むといっても、では全てを受け入れられれば良いのか? 心が広いのか?

受け入れるとはどういうことか? 何でも平等に扱えという意味なのか? 何でも同じように赦すということなのか?

こういったことは自分の度量や心境、そして相手の状況にもよって受け取り方が異なるので、具体的な使用例は難しいような気がしますし、普段の会話でもそう出てくる言葉でもありませんよね 

ただ簡単に言うと、単に悪(悪いこと)を受け入れろということではなく、自分の苦手なもの嫌いなもの価値観の異なることも許容したり、心の幼さゆえの狭い価値観を温かく見守ったり、許しがたい行動であっても相手の心境を理解した思いやりにより許容したり、「必要悪」を許容する大きな目と心を持つ、そういったことであると思っています。

 

社会は「清濁」混在の場である。

社会とは、学校の場でもいいし、会社や仕事の場でもいいです。

要は多くの人間が集まる場所を指します。

そんな社会の場には「清濁」がたくさん混在しています。

世の中には色々な人が居ますから、良い人も居れば悪い人も居るし、やさしい人も居れば意地悪な人も居ます。気が合う人も居れば気が合わない人も居ます。

同じ人間でも良い所(長所)もあれば良くない所(短所)もあります。

 

「清濁併せ持つ」の場合、「清」は自分、「濁」は相手(自分以外)といった場合でしょうか。

 

度量の狭い人というのは、自分にとってこの悪い部分「濁」を受け入れられない人のことを指す場合が多いです。

ですので「清濁併せ呑む」というのは、度量の大きさ、器の大きさ、を指す意味で用いられるということです。 

会社や仕事の場での例で言いますと、一昔前の上司・リーダーという人物はこの「清濁併せ呑む」度量のある人が、程度は別にして多かったような気がします。

そもそも人の上に立つ立場の人というのは、決して仕事が出来るからだけではありません。

多くの様々な部下の長所を引き出して活用し、かつ、短所を育てていくことが求められます。

個人で仕事が出来て偉そうにしている人は本来上司・リーダーの資質とは違うのでしょう。(仕事の内容にもよりますが)

 

さて、会社に若くして入る新人であれば、それはまだ社会人としては未熟であります。仕事を覚えるのが遅い人も居るし、生意気な人も居ます。

しかし、上司・リーダーである自分にとって使いやすい人や自分になついてくれる人だけを受け入れるようでは料簡(りょうけん)が狭く、いずれは下からも上からも人は離れていってしまうかもしれません。

仕事においては、お客様からの理不尽な要求や無理難題、自分の上司からは無情な責任を押し付けられたり、部下のミスで尻拭いをさせられたり、様々なことが日常的に起こります。

それでも「自分は悪くない」「なんで私がそんなことを」「相手の都合なんか俺には関係ない」などと言ってばかりいると、社内からも社外からも敬遠されがちになってしまうものです。

それが例え理不尽なことであってもです。

それが社会の一面でもあります。

自分の価値観を大切にし、自己主張をしていくことも大事なことではあるけれど、それだけでは「頭が固い」「独りよがり」と見なされるのが社会の常でもあります。

そうではなく、上司や部下の立場や背景、現在の相手の心境などを少しでも思いやり、代わりに責任を負ったり尻拭いをすることにより、相手には少なからず「恩」が出来ます。

これは恩をきせろということではなく、徳を積むと言った方が良いかもしれません。 

自分のこのような行為により、相手も何となく感化されて良い方向に向かうようになるかもしれない。

このような行為が積もることにより、人物を認められ、上司の信頼厚く、部下の人望を集め、大きなことを成し遂げられることになるかもしれない。

これらは単なる「清濁併せ呑む」の私の見解の一例ですが、このような意味合いも含んでいると思っています。

 

世の中にはやはり多くの様々なタイプの人が混在しています。

当たり前ですね。

その世の中で大きなことを成し遂げる、または上手に渡っていける人物というのは、良くも悪くもこの「清濁併せ呑む」を持つ人が多いはずです。

それは事業だけではなく、政治の世界でもそうですし、一家庭の場でもそうかもしれません。

しかし、「清濁併せ呑む」=「立派な人」 

というわけでは必ずしもありません。

きっと悪い人も多勢いることでしょう。

そもそも意味合いはまた別なんです。

ですが、何かを成し遂げる、大成するということは、「清濁併せ呑む」度量が必要ということなのだと思います。 

そして、大きなことを成し遂げる云々ということではなくても、「清濁併せ呑む」という言葉には、「思いやり」という意味合いも含まれていると思います。

自分の価値観とは違っても「相手の立場を思いやる」、これにより幅広い度量が備わっていくということなのでしょう。

良い人も悪い人も、好きな人も嫌いな人も、どんな人にも同じように接したり、同じように思いやりを持つというのは、なかなか誰にでも出来ることではありません。

そうです。

「清濁併せ呑む」というのは誰にでも出来るわけではないし、簡単なことでもありません。

やはり何度も言うように、「清濁」を分け隔てなく「呑み込む」という度量がなければ、それをいくらやろうと思っていても無理ですよね。

むしろどんどん悪い方向へいくだけです。

 

「清濁併せ呑む」をもし少しでも身に付けたいのであれば、まずは「思いやり」を誰にでも持てるように、少しでも分け隔てなく人にやさしく出来るように、そんな人としての成長を目指してみるのも良いかもしれません。

そうして人間が出来てくると、いつのまにか「清濁併せ呑む」人間にきっとなっているし、そのような人間は社会でも活躍したり、家庭も大切にしたりして、素晴らしい人間に近づいていることでしょう。