空飛ぶ畳

日常の思ったこと、育児・子育や仕事のことなどつらつらと書いていきます。

幼稚園児などの未就学児に「金銭」のお年玉は要らないのでは?


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ただの個人的な感想です。

ここでいう幼稚園児・未就学児というのは、ようは「お金」の価値をまだ理解していない子供に対して、ということです。

そのような子供には「お金」「金銭」ではなく、お菓子などで十分ではないか? という意味です。ちなみにうちの幼稚園児の息子は金銭でのお年玉をいただいています。

 

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このようなことを書くと、子供のお年玉は「子供のもの」なのか「親のもの」なのか? といった話にもなるかと思います。

まぁ一般論と同じで、基本的には子供のものです。子供がいただいたお年玉は、基本的には子供用として管理するつもりです。

ですが、今現在、お金の価値をあまり認識していない息子へのお年玉は、おもちゃやお菓子などに変えて与えています。

きちんと管理するのは小学生以降にするつもりです。

 

さて、さっそく何を書いているのかよくわからなくなってきました。

 

うちの息子は現在4歳ですが、親戚の子(息子からしたら「いとこ」です)は小学生や中学生などです。

当然うちは親戚の子たちに三千円、五千円などのお年玉を渡します。

ですが、親戚の親たちは「なぜか」同額のお年玉を息子に渡してきます。きっと相手からしたら同額の金額を渡さないと失礼にあたるという認識なのでしょうか。ですので必ずうちが渡した後に貰う形になります。

また、うちの親(息子からしたら祖父母)も、私たちの懐事情を気にして多めのお年玉を息子に渡してくれます。

 

正直このような渡し方は息子が2歳ぐらいのころからあり、毎年戸惑ってしまう感じになります。

「こんな要らないのに(苦笑)」

「うちは小学生に上がってからでいいよ」

 

このように言ってしまうことも逆に失礼になってしまうのでしょうか。

普通であれば相場といったものがあるかと思いますし、貰える期間は年齢によりずれが生じるのは当然です。うちのようなこういったお年玉の渡し方(貰い方)はきっと特殊ではあると思います。

 

もちろんこのような配慮はとても感謝していますし、有り難いことだと思っています。

相手から善意でしてもらっていることに対して、こちらがどうこう言うべきことではないのかもしれません。

 

しかし、

高額な「お金」よりも、100円ぐらいのお菓子の方が嬉しいな~と思ってしまいます。(笑)

ちなみに私は親戚の子がまだ未就学児のときは、お年玉は渡していませんでした。

そのときはまだ私にも子供が居なかったので、「御返しに上げるべき」という感覚、子の親に対する配慮、といったものがなかったのも事実です。

仮にうちにも同年代ぐらいの子供が居て、我が子がお年玉を貰ったら、未就学児でもお返しでお年玉を渡しているとは思います。

 

このように考えると「お年玉」とは何なのか? 誰のためのものなのか?

そんな風に思ってしまいます・・・

そんなこと思うこと自体が野暮なのでしょうか。

 

ちなみに「お年玉」とは

お年玉(おとしだま、御年玉)は、正月に新年を祝うために贈答される品物のこと。
単に年玉(としだま)ともいう。現在では特に子供に金銭を与える習慣及びその金銭の意で用いられている。
年末に贈られる歳暮と異なり、目上の者が目下の者に贈るのが特徴。
子から親への新年祝などの場合には表書きを「お年賀(御年賀)」とする。
これをもって年のありがたい賜物(たまもの)であるとして「とだま」という名がついたという説。
なまって としだま」があり、また、神棚に供えた、餅玉を与えたために「年玉」の名前がついたとの説が有効。
「たま」とは、「たましい」のことであり、「としだま」とは新年を司る年神への供え物の下げられたもののことであると民俗学的には説明される。供え物には祀った神霊の分霊が宿るとされ、それを頂くことにより、人々は力を更新して新たな一年に備えるのである。
年玉の習慣は中世にまでさかのぼり、主として武士は太刀を、町人は扇を、医者は丸薬を贈った。

wikipedia - お年玉 より

要は神霊に捧げた鏡餅や、大切にしている品物、いわゆる「魂(たましい)」が注がれたものを贈る習慣ということでしょうか。

 

よくわからない記事になってしまいましたが、何が言いたいかというと、大人同士の打算というか、見栄や世間体が優先されてしまう事情が何とも違和感があるという思いです。

お金の価値をあまり認識していない子供が、数千円も入ったお年玉をもらっても、正直「きょとん」です。

そのお金で何かを買ったとしても、子供からしたら親から貰ったものという認識しか残らないのが、何とも残念な感じがしてしまうのです。

 

そんなモヤモヤでジレンマな思いの今日の記事でした。